大学院を辞めたい

大学院を辞めたいという話です。今度カウンセラーさんと話すので、考えを整理するために書きました。

 

 僕にとって大学院進学という選択は自己欺瞞と惰性でしかなかったと自白します。僕は学部3年生から4年生の初め頃、大きな挫折体験をしました。それ以来、僕は抜け殻のようになりました。就職活動の準備などしていようはずがありませんでした。自分のような人間が世に放たれることへの申し訳なさも感じていました。私は学問の道に進むべき人間であり、高い研究能力を持っていなければならないという強迫観念とあわよくば大学院で成功できるのではないかという楽観主義も手伝って、私は大学院進学を決めました。決めたというより、それ以外の選択肢はありませんでした。

 

 大学院進学は僕の意思であって、僕の意思ではありませんでした。僕の病的な楽観主義、無計画さ、脅迫観念は僕の意思を眩ませました。僕の魂はそれを望んでいないのに、僕の中に潜む別の法則が僕を支配したのです。聖使徒パウェルは言いました。

若し我欲せざる所を行はば、之を行う者は、既に我に非ず、乃我の衷に居る罪なり(ロマ書7:20)

我が肢體の中に他の律法在りて、我が智慧の律法と戰い。我を我が肢體の中に在る罪の律法の擄と爲すを見る(ロマ書7:23)

  僕自身、僕は惰性と無計画から大学院に進学することになったのだと理解していました。しかし、僕の尊大な羞恥心と臆病な自尊心はそれを許しませんでした。僕はあたかも研究をするために大学院へ進学するかのように振舞っていました。僕自身も次第にそうであるかのような錯覚を覚え始めました。今思えば、つまらないプライドを守るための自己暗示にすぎませんでした。私は自分も他人も欺いて大学院に進学しました。

 

 嘘で固められた動機で熱心に研究に取り組めるはずもありませんでした。無気力に負けては義務感で自己を奮い立たせ、しばらくして再び無気力になることを繰り返していました。例えるなら、サイドブレーキをかけたままアクセルを踏んでいるような状態でした。

 

 大学院2年生の秋、私は大学院を休学しました。研究の道を諦めて就職しようと思ったからです。しかし、私は自分の病的なまでの無計画さとそれからくる楽観主義を侮っていました。一年の猶予を得て、再び学問を続ける気になりました。というより、就職活動を延期する理由が欲しくなりました。結局、博士課程に進むと言って就職活動を放棄しました。しかし、学問し続けなければならないという義務感と務め人となることへの不安以外に博士課程へのモチベーションはありませんでした。ろくに計画も立てないまま、漠然と受験勉強を始めました。このころの自分には、まるで東京から北海道へと行こうとして徒歩で西に向かって走り出してしまうような愚かさがありました。もちろん受験勉強ははかどりませんでした。進学は諦めました。結局、この休学期間は延命治療にすぎませんでした。

 

 10月になり復学しました。修士論文の準備などしていません。ネガティブな動機で漠然と勉強を続けてきた私はここで自分の置かれている状況の愚かさに気づきました。急ごしらえで研究計画を作りました。指導教員は放任主義なので、特に文句は言われませんでしたが、尊敬する先生からは指導を拒絶されました。11月の半ばころまでせっせと論文を書いていましたが、その論文は僕の大学院生活を映し出すかのようにすべてが虚無でした。サイドブレーキがかかったままアクセルを踏んで何とか進んできた車もここでガソリンが切れたようです。僕は大学院を修了する意思を失いました。これ以上虚無に服し続けることに何の意味があるでしょうか。僕にとって修士号が何の役に立つでしょうか。今期の修士論文の提出を見送ったとして、来年度に論文を書く自信はありません。何より、その選択は今までと全く変わらないただの延命治療にすぎません。僕は一度死ぬべきなのです。今の環境を捨ててすべてをリセットしてやり直したい。今度は善き人として生きることができるように。